想像の幻想論

様々な思考の束

「エヴァQ」評論

エヴァQは同性愛の映画です。いや、カヲルくんとシンジだけでなく。全員。

ネルフ側はゲンドウと冬月が擬似父子関係を結んでいて、カヲルくんとシンジがBLで、レイがほっとかれています。

ヴィレ側はミサトとリツコが相棒で、リツコとマヤがレズで、アスカとマリは擬似母子関係(監督が何かでアスカは母に見捨てられなかったから式波と言ってましたが、擬似的な母がいるからってお前)、そしてトウジの妹も多分リツコに憧れています。

Qはネルフというゲイ集団とヴィレというビアン集団が戦って引き分けになった映画です。

レイはホモソーシャルな集団(ネルフ)における異分子ですから迫害されていて、最後に同性であるアスカに生きる理由を与えられています。

シンジとアスカが最後に手を繋いで歩いたのは、ホモソーシャル(ホモセクシャル)で固まった世界を変えるという象徴です。

性差別とは、性別によって違う差別をすることです。それにより、同性間は共通利害を持ち意思疎通ができますが、異性間はコミュニケーションができなくなります。断絶された世界において、果たして二つの性は和解することができるのでしょうか。というのが私の見解です(狂っている…)。

追記:アスカもアニメ版で「赤ちゃんなんか欲しくないのに」って言ってたのが、Qではコネメガネと延々母子プレイしてるし、庵野は「母親になりたくない女性が別の女性に母親になってもらう」ことを解決策だと思っている節があるし、ゲンドウも「父親になりきれなかった男が別の男に父親になっれもらうことで心を安定させる」とかヤバイモラトリアムをやっていたし…そのヤバイ状態を混乱させるのがシンジという異分子なのじゃ

5/12

暇ですね。 PS1-4、ファミコンスーファミ、64、wii(予定)あります。シェアハウス遊びに来てください寂しいです。 遊びに来たい人はなんかコメントください。

どんどん一人で暮らせない人間強度の弱い人間になってゆくのが分かる。まあ元々一人で長く過ごすと鬱になる人間だけど、親元では過ごしたくないめんどくさい奴っぽいです。

猫の死体無くなってた。

病院に連絡して予約を取った。えらいえらい。

シングルマザーとか成人女性と結婚したいです。連絡ください。

各国のベーシックインカムを調べて財源をどっから捻出しているか調べてみたい。本当は法人税上げたいけど、会社はよそに逃げちゃうからね…

日記

なんか個人情報とかの出し方になやむ。自分はともかく同居人たちに累が及ぶのだけは避けたい。

風邪を引く。ゼミの前の席の奴が、話し合いの時間にゴホゴホやってた。見事にうつされる。全体的に体がだるいので授業を自主的に全休して休む。授業も何個か履修辞退しようと思う。後期はもっと休めるようにしよう。

この頃宴会が多い。宴会といってもリビングに同居人と集まって飯食ったり酒飲んだりタバコ吸ったりしながら駄弁るだけだ。この時間は結構好きだが、そのせいで体の免疫力が下がりまんまと風邪を引く。少し控えよう。

自炊はすっかりしなくなってしまった。遠くのスーパーへ材料と調味料買いに行って、料理してよりも近くのコンビニでお弁当買う方が何かと良い。自分で作るとどうも塩分量が多くなりすぎるのだ。朝食と、大人数集まったとき用のレパートリーがあればそれで十分。

政治家になろうかどうかと悩んでいる。とりあえず別に資格取って10年ぐらい働きながら社交して、地方議員になるぐらいが目標。女性の権利を拡張して、みんな楽になれる政治がしたい。ベーシックインカムとか。あと政治家シェアハウスも構想中。女性専用にしようと思う。女性専用シェアハウスの楽さを知ったことプラス、女性政治家を増やすという目標もある。

シェアハウス、随分ゲームが増えた。

シン・シェアハウス

やっと安住の地を見つけた哲学徒です。生きてます。猫を飼いたいねーとか言ってましたが、結局飼えなかったのでやたら猫系の家具が多いシェアハウスとなりました。やっぱり賃貸は債権(人の人に対する権利)だからダメですね。いつかボロ小屋でもいいから購入して、物権(人の物に対する権利)を手に入れてムチャクチャやりたいですね。人間は悪い。

最近やっと分かりましたが、自分は一人暮らしは無理っぽいです。というのも、以前一人暮らし+ボッチを決めていたら普通に鬱病になったという実績があります。じゃあ外で友達作ればええやん、という人もいますが、高校を卒業したら、なんらかの人間関係固定装置(サークルなど)がないと友達は作れなくなります。SNSはそういう人間関係固定機能がないので、直ぐに知り合いに戻ってしまいます。

そこで、シェアハウスです。まあ、別に人間関係固定装置だったらシェアハウスじゃなくてもいいんですが、変にテニスとか料理とかしなくても生活をしているだけで友達になれるという利点はあります。それに、誰かが言ってましたが「シェアハウスは民主主義の学校」らしいです。民主主義というと大げさですが、他者との話し合いや意見のすり合わせなど基本的な人間との関係の結び方を学ぶことができるし、自分の身の回りの世話もしなければならないので、一人暮らしや結婚生活などに移行するにしても有利です。

話が脱線しました。という訳で、誰か京都駅近くの女性専用シェアハウスに住みませんかということでした。現在空き部屋が三つあります。私の他にもう一人住んでます。家賃は、約4万円です。猫は残念ながらいませんが、楽しくやっていきましょう。(プレステ4とか一緒にやりましょう)

水島広子『女子の人間関係』

著者はまず、女性と、社会的に傷つけられ貶められ続けそうならざるをえなかった「女」とを分ける。そして、その「女」は虐待やいじめなどにより傷つけられてきた人と特徴が共通すると述べる。「自分の意見と違う意見を持っている人を見ると「自分が否定された」と感じがち」「「自分の敵か味方か」を区別しがち」「自分の気持ちを率直に打ち明けることが苦手」「「自分の領域」と「他人の領域」の区別がつきにくい」をその特徴として挙げる。

しかし、「女」は生物的なメカニズムによってではなく、社会的なメカニズムによって作られるのだ。「伝統的に、そして未だに一般的な傾向として、女性は「男性から選ばれる性」」だと著者は主張する。そしてそのことにより、女性は「選ばれる」ことを中心に世界が回っている。

選ばれるということは「外見」重視になるということだ。「女性らしい細やかさ」は一見内面の問題に見えながら、実は「外的なもの」である。なぜなら、それはかなりの程度マニュアル化できるからである。男性がそれを求める限り女性にはそれを「演じる」という選択肢が存在する。

女が選ばれる性であるということは、選ばれる人がいれば選ばれなかった人が存在する。→「女の敵は女」 この問題の本質は、常に選ばれる性であることに由来する。女は絶対評価ではなく相対評価の世界の中にいる。よって、「女」は「相手にどう思われるか」というところに目がいく。

女性であるがゆえに何かを我慢した人は、その被害者意識から、我慢していない女性を「許さない」と感じることが多い。自分が「べき」で縛られている人は、他人のことも「べき」で縛りたがる。それは「正論」「一般論」の形になって我慢していない女性を縛ろうとする。

顔色が良く読めると、女性は褒められる。しかしそればかりしていると「それが誰の領域の問題なのか」ということが分からなくなる。「相手の顔色をよく読める、相手が必要としていることを察することができる、ということは、つまり相手の領域に立ち入って忖度しているということ」

他人の領域を平気で侵害する人は、そもそも「領域」という感覚が希薄だから、他人にも同じようなことを求める。「自分は表現しなくても、顔色を読んでほしい」もその現れ。言わなくても察してもらえることは女性にとってとても重要。察することが美徳とされる、「気がきく」と言われるのだから、それを相手に求めるのも不思議ではないし、察してもらえないことを「気にかけてもらってない」と感じるのも仕方がない。しかし、本来「自分の領域」の中のことが分かるのは自分だけ。

「女」の特徴とは、傷の症状のようなもの。さらに傷つけるのではなく、うまく避けて、できれば癒していくことが必要。「女」を見下したり、自分自身が「女」にならず、自立した自由な責任を持つ個人としてその人の、または自分の中の「女」を癒していくことが最終目標である。

どうですか、大変ですね(自分も女ですが)。まあ、「女」としてではなく自立した人間、個人、一個の人格として誠実に時には逃げつつその人と向き合えば良い方向に向かうのではないか、という話です。相手がこうされたいのではないか、社会に求められてるのではないか、ではなく自分がこうしたいからこうすると決断すると生きやすいとも。要は飄々と生きろということですかね。自分は子供を持つつもりはないので、あれなのですが、「子供を産んで専業主婦」「子供を産まないでバリキャリ」「子供を産んで兼業主婦」のどれもが、全て何かを諦めた選択肢になるというのは目から鱗でした(仕事で活躍したかった)(子供を産みたかった)(育児も仕事も中途半端と言われるのでは)。そんな選択肢も能動的に選ぶことで、肯定的に受け取れるようになれるというのは、ただの欺瞞だと思います。社会運動に向かいましょう。そして、子供を産んでも仕事が普通にできる社会にしていけば、女性が傷つけられた「女」にならない社会になれば、息がしやすくなるのではないかと思います。具体的には保育所やベビーシッターなど育児制度に金ドボしたり、女性の賃金を男性並みに上げたり、ベーシックインカムを子供に適用したり。高齢化社会だからこそ子は宝です。

書ける人ってすごい

デスネ。古代中世、もしくは現代でも文字を書けるところまでいくのは一握りの人間だけです。日本は識字率がとりわけ高い国なので、みんな話せて読めて書けるものだという幻想を抱いてますが、政情が安定しないなどの理由で普通教育ができてない国などはざらにあります。まあ、タイトルは文字を書けるのがすごいという意味ではありません。文章、筋道だった長くテンポが良く含蓄ある文章を書ける人がすごいということです。

長い文章を書ける人なんてそういません。図書館とか行くと恵まれた一握りの天才たちが書いた、長い長い優れた内容の本がドサドサあるので錯覚しがちですが。みなさん、学校の作文は好きでしたか?小論文は?レポートは?エントリーシートは?そういうことです。最近は長い文章を書けるだけで尊敬してしまいます。長い文章を書いてそれを出版ラインに乗っけるだけの名声も憧れますね。つまり単著書きたい。

みなさんのところはどうか分かりませんが、私の大学では「編著や論文集はクソ、とにかく単著読めやクソども」という教育を受けました。そして、ある程度それは正しかったと思います。編著だと誰の考えかよく分からなくなる、論文はパラ見するのにはいいが本腰入れるには短すぎる。短すぎる、というのはとりわけ問題です。レポートを書こうと思ったら、書きたいことの1/10も書けなかったということはありませんか?やはり、分厚く人を殺せそうな本ぐらいになると、自分の考えを網羅できて、自由に展開できるのです。そして、書くことにより著者の考えは体系立てられ、自己反省され、洗練されていくのです。まあ、だからといって聖書読むなとは言いません。(聖書は無料でもらえる対訳付きの薄いのではなく、旧約続編付きの分厚いやつhttps://www.amazon.co.jp/dp/4820212435 を買い、巻末の新訳から旧約への引照を引きながら読むことをオススメします)

単純に単著を書けるだけの人は、それだけ学界で影響力を持っているということであり、信頼できるというのもあります。新書なんかは結構若手が出したりでアレでしたが、最近は重鎮とも言える先生方も出すので侮れません。新書は新書で、一般教養の授業を一コマ受けるのと同じだけの効果はあると思いますが(実際、新書だと学生が買うからという理由で大学の文系の授業の教科書は大体新書です)、やはり分厚い本を腰を入れて読むのは確かな実力に繋がっていきます。では、何を読めばいいのか?まず、お近くのマンモス大学の生協にもぐります。気になる本を買います(買えない場合はスマホで表紙の写真を撮って後でamazon様で買います)。小説じゃない方がいいでしょう。それだけです。特に学期始まりだと、教科書として使われる本が積んであるので、適当にバイキングすればいいでしょう。もしくは教科書目録だけ貰ってくるとか。やはり、学界の最前線に立つ人たちが選んだ本を読むというのは大いに意義があることだと思います。

書く話だったのに、読む話になってしまいました。いえ、まあ、書くときも「もっと参考文献増やせ!」とか言われるので、結局どれだけ読んでどれだけまとめられたのかという問題になりがちなんですがね。特に文系ならまずは適当に新書を読んでれば、そのうち読むべき本が分かってくるのではないかと思われます。理系?おいしいんですか?それ。では、ここまで。