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想像の幻想論

様々な思考の束

要約 ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』ロングver.

要約
アンダーソン『想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』におけるナショナリズム概念について
 
はじめに
  ベネディクト・アンダーソン 1936-2015)は、東南アジアをフィールドとする地域研究者である。アンダーソンは『想像の共同体』において、副題にあるように、ナショナリズム国民主義)の起源と流行を探ろうとした。未だに人々を熱狂させ、時にはそのために大量の人間が死を選ぶことさえ珍しくはない「ナショナリズム」という概念の探求がこの書の目的とするところである。
 
Ⅰ序
  一九七八年十二月、一九七八年のヴェトナムのカンボジア侵攻と占領、翌二月の中国のヴェトナム侵攻というマルクス主義体制間の通常戦争(化学兵器生物兵器核兵器を用いる不正規戦争とは区別される戦争)において、いずれの体制もマルクス主義を用いて戦争を正当化しなかったのはなぜか、という問題はアンダーソンが『想像の共同体』を執筆した理由の一つである。 ii ベネディクト・アンダーソン口述、梅森直之編、光文社( 2007)『ベネディクト・アンダーソングローバリゼーションを語る』 p.40つまり、マルクス主義国家がかつてのインターナショナリズム国際主義)的な連帯する傾向を失い、資本主義国家のように同志討ちを始めたのは何故かという問題である。
アンダーソンは、エリック・ホブズホームの「マルクス主義運動と国家は、形式的にも実質的にも、国民的つまり国民 (ナショ) 主義的 (ナリスト) となってきた」という言葉に同意するが、しかし、ことは社会主義世界だけにとどまらないとする。国際連合に加盟する国は毎年のようにあるし、かつて普通の国民であった「旧国民 (オールド・ネーションズ )」はその国境内において、新たな政治的意識の芽生えであるサブ・ナショナリズム(地域の政治的意識が独立運動にまで発展したもの)との対決を迫られている。つまり、国家の数は年々増えてきているし、これからも増え続けるという見込みであり、「ナショナリズムの時代の終焉」など地平のかなたにさえ現れていない。
アンダーソンは、ナショナリズムマルクス主義理論にとって厄介な変則であり続け、それゆえ無視されることのほうが多かったと言う。マルクスの『共産党宣言』というインターナショナリズム的な色合いの濃い著作においてさえ、「おのおのの国のプロレタリア階級は、当然まず自分自身のブルジョワ階級を片づけねばならない」 iii Karl Marx and Friedrich Engels, The Communist Manifesto , in the Selected Works,, p.45.  傍点引用者。ちなみに邦訳の該当箇所はマルクスエンゲルス大内兵衛・向坂逸朗訳、岩波書店 1951)『共産党宣言p.54ナショナリズム的な一文が見られる。なぜ世界階級であるブルジョワジーの国民的分割に理論的意義があるのか。
アンダーソンは、このナショナリズムの変則の問題に取り掛かるにあたって「国民 (ネーション) 」のという概念の抱える三つのパラドクスを紹介し、さしあたっての定義を行う。
 第一のパラドクスは、「歴史家の客観的な目には国民 (ネーション) が近代的現象とみえるのに、ナショナリストの主観的な目にはそれが古い存在とみえるということ」
 第二のパラドクスは、「社会的文化現象としてのナショナリティ〔国民的帰属〕が形式的普遍性をもつ――だれもが男性または女性として特定の性に「帰属」しているように、現代社会ではだれもが特定の国民 (ナショナリティ)に「帰属」することができ、「帰属」すべきであり、また「帰属」することになる――のに対し、それが、具体的にはいつも、手の施しようのない固有さをもって現れ、そのため、定義上、たとえば「ギリシア」というナショナリティは、それ独自の存在となってしまうということ」 iiii B.アンダーソン、白石隆・白石さや訳、書籍工房早川( 2007)『定本想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』 p.23(以下IC と表記) ii。すなわち、普遍的であるはずなのに、個別的なものだとみなされているということ。
 第三のパラドクスは、「ナショナリズムのもつあの「政治的」影響力の大きさに対し、それが哲学的には支離滅裂だということ」 iiv 同上 p.23つまり、それを的確に分析する理論に欠けるということ。
 アンダーソンはこれらのパラドクスを簡単にするために、国民 (ネーション) 国民主義 (ナショナリズム)イデオロギーだと考えるよりも親族、宗教と同類のものと見なしたほうがいいという提案をしている。そして、「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体 (イマジンド・ポリティカル・コミュニティ )である」vv 同上 p.24 vvi この定義は、国民国家は虚構の共同体であるという批判の援用として広く用いられてきたが、これは端的に誤読である。新倉貴仁( 2016)「「想像の共同体」を越えて―ベネディクト・アンダーソンナショナリズム論をめぐって―」、吉川哲士編『思想』、第 81108 号、 pp.42-62、、または、ベネディクト・アンダーソン口述( 2001)「記憶と忘却―インドネシアと台湾のナショナリズム」、渡辺英之編『京都精華大学紀要』、第 21号、p.82 参照 iという定義を与える。
 「国民は[イメージとして心の中に]想像されたものである」 vvii IC p.24.、「国民は限られたものとして想像される」 vviii 同上 p.25.iii 、「国民は主権的なものとして想像される」 iix 同上 p.25.、「国民は一つの共同体として想像される」 xx 同上 p.26.。以上が国民の定義である。
 
Ⅱ文化的根源
  アンダーソンは、ナショナリズムが死と不死に関わり、宗教的思考と親和性を持つとしている。そこにおいて、ナショナリズムは他のイデオロギーに分類されるものと一線を画す。マルクス主義をふくめすべての進化論、進歩主義的思考様式の大きな弱点は、宗教が担ってきた、病い、不具(身体的、精神的障害)、悲しみ、老い、そして死という人間の重荷に対し応答をなすという役割を担えないという点である。ナショナリズムが宗教的思考と親和性を持つのは、宗教的思考様式の衰退とナショナリズムの誕生とが、同じ一八世紀において起こったことによる(アンダーソンはナショナリズムが世俗化によって「生み出された」、宗教に「とってかわった」と言いたいわけではないと自ら念を押している)。
 これらのことから、ナショナリズムは他のイデオロギーとではなく、それに先行する文化システムである宗教共同体、王国と比較されねばならないと言う。
 アンダーソンによれば、イスラム世界、キリスト教世界、仏教世界、儒教世界(中国、つまり中華世界もアンダーソンはここに含めている)のような広大な宗教共同体でさえ、文字を媒体とすることによってはじめて想像可能であったのだ。聖典等に用いられたこうした言葉は、音ではなく記号によって共同体を創造した。この伝統は数学の世界ではいまだに保持されている。
 こうした共同体が近代国民の創造の共同体と決定的に異なる点は、その成員の選び方にある。この共同体は聖なる文字を知らない異郷の人間がその文字を習得した(ある種文明化された)とすれば、彼がどんな肌の色をしていようがこだわりなく喜びをもって受け入れたのである。
 聖なる言語の存在により成立が可能となった聖なる共同体は、しかし、聖なる言語を読むことができたわずかな文人と、膨大な文盲とで構成されていたのであり、聖なる文字だけでこの現象を説明することはできない。この現象にはさらに、その社会において文人は天上と地上との仲介人であったという世界観念の存在を考慮することによってのみ理解できる、とアンダーソンは述べる。 .
 しかし、こうした聖なる共同体も、二つの理由によりその支配力を失う。一つは、非ヨーロッパ世界探査の結果であり、もう一つは聖なる言語それ自体が次第にその権威を失ったせいである。
 アンダーソンは、王国だけが唯一の政治システムであった世界を我々が想像するのは困難であると言う。なぜなら、「「まっとうな」君主制は、本質的に、政治生活についてのすべての近代的概念を否定している」 xxi 同上 p.44.からである。王権の正当性は住民ではなく神に由来し、住民は市民ではなく臣民である。近代的概念において、国家権力は法により規定された領土の隅まで均等に作用するが、近代以前においては、主権は辺境に行くほどあいまいになり浸透しあってさえいた。そこから逆説的に、王国は多種多様な、領域的に隣り合っていない住民を包摂できたのだった。
 これらの王国は、戦争だけでなく、王族の結婚(王朝の結婚)により領土を広げることも可能であった。アンダーソンはハプスブルグ家をその例として挙げる。しかし、これらの王国の君主の正統性は一七世紀以後の市民による革命の数々によって失墜した。
 アンダーソンは宗教の衰退により、世界理解の様式が変化したことが想像の共同体の成立を可能にしたと主張する。近代以前、つまりナショナリズム誕生以前の世界では、聖なる共同体は、現代的衣装を身にまとった羊飼いが、イエスが生まれた厩舎を訪れるステンドグラスなどによって表現されていた。これは当時の人々の目に全く自然なこととして写った、とアンダーソンは言う。
 アウエルバッハはこのような世界観について次のような描写をしている。
 
たとえばイサクの生贄のような事件がキリストの受難をあらかじめ表象するものとして解釈され、つまり前者において後者がいわば告知され約束されていて、後者は前者を充足する( figuram implore [表象を充たす]とはこの意味である)とするならば、時間的にも因果関係のうえからもつながりのない二つの出来事に関係が――水平な次元においては(時間的外延を表すこの言葉をあえて使用することが許されるならば)理性によって確立されない関係が――成立するのである。二つの出来事が神の配慮によって垂直に結び付けられている場合のみこの両者の関係は成立するのであって、神の配慮のみがかかる歴史的展望の企てを可能にし、その理解の鍵を与えてくれるのである。二つの事件の水平な関係、すなわち時間上・因果上の関係が失われ、「ここ」と「いま」とは現世の推移の一部をなすものではなくなって、たえず存在し未来において成就されるものとなる。厳密にいうと「ここ」と「いま」は神の前では、永遠のもの、恒常のもの、断片的な現世の出来事においてすでに完成したものとなる。 xxii E・アウエルバッハ、篠田一士・川村二郎訳、筑摩書房( 1967)『ミメーシス(上)』 pp.84-85ii
 
この同時性の概念は、ベンヤミンがメシア的時間と呼ぶものと対応しているとアンダーソンは主張する。前近代的な同時性の概念、または、メシア的時間の概念は、近代以後、再びベンヤミンの言葉で表現すると「均質で空虚な時間」の観念と結びついた同時性にとって代わった。そこにおいて、「同時性は、横断的で、時間軸と交叉し、予兆とその成就によってではなく、時間的偶然によって特徴付けられ、時計と暦によって計られるものとなった。」 xxiii Benjamin,Walter, Illuminations.London:Fontana.1973, p.263
 アンダーソンは、十八世紀に誕生した小説と新聞の構造が、「国民という想像の共同体の性質を「表示」する技術的手段を提供した」と言う。小説と新聞は、新たな同時性の観念、つまり、暦の上の偶然を結びつける新たな同時性の概念、そして、本の一形態としての新聞が、「近代人には新聞が朝の礼拝代わりになった」とヘーゲルが言うような仕方で、毎日毎日あらゆる人々にあらゆる場所で同じ内容の新聞が消費されることにより生まれる連帯感が、想像の共同体を可能にしたのだ。つまり、「ひとりのアメリカ人は、二億四千万余のアメリカ人同胞のうち、ほんの一握りの人以外、一生のうちで会うことも、名前を知ることもないだろう。まして彼には、あるとき、かれらが一体何をしようとしているのか、そんなことは知るよしもない。しかし、それでいて、彼は、アメリカ人のゆるぎない、匿名の、同時的な活動についてまったく確信している」、といったしかたで想像される共同体を想像可能にしたのだ。
 
国民意識の起源
 アンダーソンは商品としての出版物の発展、出版資本主義が、国民という想像の共同体の成立に極めて重要な役割を果たしたと主張する。
 初期の出版物の市場は、ラテン語を読める文人たちという薄い層に限られていて、この市場の飽和には一五〇年かかったと言う。ラテン語を読めるというのは、ラテン語は話し言葉としては死んだ言葉であったので、俗語(ドイツ語、英語など)とラテン語を使いこなすことができる二言語を使いこなすことができる知識人であることを意味する。
 ラテン語出版物市場の飽和、また、当時のヨーロッパ全域における貨幣不足が、印刷業者を俗語で書かれた廉価な出版物の出版へと駆り立てた。 xxiv Fevre, Lucien, and Henri-Jean Martin, The Coming of the Book , p.122.iv
 俗語化を推し進めた出版資本主義は、三つの外的要因によってますますその勢いを増していった。
 第一の要因は、文芸復興 (ルネサンス) である。人文主義 (ユマニスト) の古典古代へ立ち返ろうとする努力は、教会ラテン語ではなくキケロのラテン散文を模範とし始め、ラテン語は書かれていること自体が秘儀的であったのが、書かれている内容によって秘儀的となった。(もっとも、この要因は国民意識の出現にあまり与しなかった)
 第二の要因は、宗教改革である。一五一七年、ルターが九十五か条の提題を打ち付けたあと、この提題はただちにドイツ語訳され、「十五日以内に国中いたるところで目にとまるようになった」 xxv 同上  pp.289-290、「実際、ルターは名の通った最初のベストセラー作家となった」 xxvi IC p.79vi
 その後の宗教戦争(アンダーソンは宗教プロパガンダ戦争と表現している。出版による言論の戦争、人心の掌握、信徒の獲得という一連の動きを表現したかったのだろうと思われる)において、プロテスタンティズムは基本的にいつも攻勢の側、出版する側でったのに対し、カトリックは常に出版活動を禁止してラテン語を守る側であった。それを象徴するのが『禁書目録』である。
 プロテスタンティズムと出版資本主義の連合、さらに廉価普及版(俗語で書かれた)の広まりは、ラテン語を知らない、商人、女性等の新たな読者層を開拓し、彼らをその運動の渦中へ巻き込んでいった。
 第三の要因は、中央集権化を推し進める絶対君主らが、行政語として俗語を採用したことである。ラテン語はその普遍性の絶頂である中世においても、どの国の国家語にもなることができなかった。中華帝国において、文人官僚制と漢字の到達範囲が一致していたこととは対照的である。ラテン語の宗教的権威は、政治的対応物(国家)を持たなかった。ここで注意せねばならないのは、「この俗語化の過程には、なんらかの根深いイデオロギー的衝動、ましてプロト・ナショナルな衝動など、まったく伏在していなかった」xxvii 同上 p.80 ことである。
 これら出版語は、三つの方法で国民意識の素地を作った。
 第一に、「出版語が、ラテン語の下位、口語俗語の上位に、交換とコミュニケーションの統一的な場を創造した」 xxviii 同上 p.84viii
 第二に、「出版資本主義は、言語に新しい固定性を付与した」 xxix 同上 p.84
 第三に、「出版資本主義は、旧来の行政俗語とは別種の権力の言葉を創造した」 xxx 同上 p.85x
 
Ⅳ クレオールの先駆者たち
 十八世紀後半、十九世紀初頭の新興アメリカ諸国家は、ヨーロッパのナショナリズムから見ると興味深い点が二つあるとアンダーソンは言う。
 一つは、ブラジル、アメリカ、スペイン元植民地のいずれも宗主国であるイギリスと言語を同じくしていたという点である。
 もう一つは、ネアンの次のテーゼの前提を覆すような現象が実際に起こったという点である。
 
明瞭に近代的な意味でのナショナリズムの到来は、下層階級の政治的洗礼と結びついていた。・・・・・・たとえときに、民主主義に敵対的になることがあったにせよ、国民主義運動は、その見解においてきまって人民主義的 (ポピュリスト)であり、下層階級を政治生活に導入しようと試みた。最も典型的な場合には、それは、中産階級と知識人のおちつきのない指導の下に、民衆の階級的エネルギーを新国家支持へと動員し誘導するという形態をとった。 xxxi Nairn, Tom. The Break-up of Britain. London: New Left Books.1997, p.41
 
しかし、少なくとも南アメリカ中央アメリカにおいては、独立運動は上流階級(大地主、商人、専門的職業者、法律家、軍人、地方・州の役人)が掌握していた。また、下層階級(インディオ、黒人)を運動に動員するどころか、ベネズエラ、メキシコ、ペルーなどの場合、マドリードからの独立を促した当初の要因は、下層階級の反乱を恐れてのことであった。だが、「それでも、これらの運動は国民的独立運動であった」 xxxii IC p.94xii。ボリーバル、サン・マルティンら解放者たちは下層階級を市民として受け入れるべきだと宣言した。(下層階級は文盲がほとんどであり、出版資本主義が到達していなかったにも関わらずである)
 ここに謎がある。クレオール(人種を問わず植民地で生まれた者)の共同体が、なぜヨーロッパよりも早くナショナリズムを獲得し、さらにスペイン・アメリカ帝国を急速に分裂させるまでに至ったか、という謎である。
 説明として最も挙げられるのは、十八世紀後半におけるマドリードの支配強化と、自由主義的解放思想の普及である。また、大西洋横断が容易になったことと、南北アメリカが西欧の宗主国と言語を同じくしていたことであり、これは西欧の新しい政治思想が容易に伝播されることを意味する。
 しかし、これだけではナショナリズム誕生の説明にはならない。これを説明するためには「南アメリカの新生共和国が、かつてはそれぞれ、十六世紀から十八世紀にかけて行政上の単位であった」 xxxiii Masur, Gerhard. Simon Bolivar. Albuquerque:University of New Mexico Press.1948, p.678 という事実に着目しなければならないとアンダーソンは言う。
だが、行政単位はそれ自体としては住民の愛着を生まない。問題であるのは、ある行政単位がいかにして、そのために人々が自ら犠牲になるような単位(祖国)に変化するかである。行政単位がいかにして祖国に変化するかを理解するには、行政組織がいかにして意味を創造するかについて見なければならない、とアンダーソンは言う。
 これ以降この章では、地方(植民地)から中央(宗主国)への出世の道が閉ざされてはいるが、その狭い範囲内におけるクレオールの役人の巡礼の旅(言語を同じくする行政区への任地移動)により形成されるナショナリズム(言語を同じくする、偶然任地を共にする仕事仲間への相互連結の意識)と、クレオール地方紙により形成されるナショナリズムについて論じる。
Ⅴ 古い言語、新しいナショナリズム
  アメリカ大陸における国民解放運動のあとに生まれた、ヨーロッパにおける「新しい」ナショナリズムには、アメリカのクレオールナショナリズムと異なる点が二つある。一つは、「国民的出版語 (ナショナル・プリント・ラングウィツチ )」がイデオロギー的、政治的に中心的な役割を担ったということである。もう一つは、これら新しいナショナリズムがすべて遠くの、フランス革命以後はもっと近くの例をモデルにすることができたという点である。「こうして「国民」は、徐々にはっきりしていく視野の枠( フレーム )というより、はじめから意識的に達成すべき対象となった」 xxxiv IC p.120xiv
 ヨーロッパの外の事実を無視して、ヨハン・ゴット・フォン・ヘルダーはこう宣言した。「あらゆる民 (フォルク) は国民 (フォルク) であり、それ自身の国民的性格とそれ自身の言語をもつ」 Kemiläinen (1964,アンダーソン (2007)の引用による )
 この国民の概念は、ヨーロッパ全体に広まり、ナショナリズムの性格付けに関する後年の理論に影響を与えた。
 こうした深刻なヨーロッパ世界の時間的・空間的縮小は、一四世紀ルネサンスによる古典世界の発見と、逆説的だが、後のヨーロッパの全地球的支配によってもたらされた、とアンダーソンは言う。ヨーロッパの帝国主義によるアジア、アメリカ支配とそれによるこれらの文明の発見は、「人間」の既知の歴史(ヨーロッパ、キリスト教世界、古典古代)とは全く別個に発展したものであると「人間」に認めさせざるをえないものであった。そうした現地の人々をも収容できるのはただ均質で空虚な時間だけだった。
 発見と征服は、言語についてのヨーロッパ的観念にも革命を引き起こすことになる。諸言語の科学的な比較研究が本格的に始まったのは一八世紀後半になってからであった。イギリスのベンガル征服とそれに伴うサンスクリット語研究、ナポレオンのエジプト遠征によるエジプト象形文字の解読、セム語の研究の進展は、ヨーロッパの外の古代を複数化した。
 これ以降、聖なる言語(ラテン語ギリシア語ヘブライ語)は、俗語と同等の地位に降格し、これが出版資本主義によりすでに始まっていた聖なる言語の降格を完成させた。
 シートンワトソンが示すように、一九世紀はヨーロッパとその周辺地域において、俗語の辞書編纂者、文法学者、言語学者、文学者の黄金時代であった。彼らの活躍は、一九世紀ヨーロッパのナショナリズムの形成の中心的役割を果たした。二言語辞典は、政治的現実はどうあれ、一対の言語が共通の地位を持つことを表していた。彼らは、特に大学図書館に引き寄せられ、彼らの顧客もまた大学・高校の学生たちであった。一九世紀ヨーロッパにおいては、ホブズホームの「学校と特に大学がナショナリズムの最も自覚的な戦士となるにつれ、学校と大学の進歩がナショナリズム進歩の物差しとなる」というテーゼは妥当であったとアンダーソンは言う。
 よって、この辞書編纂革命の軌跡は、やがて第一次世界大戦へと至る道だと言えると、アンダーソンは言う。
 ブルジョワジーの勃興以前の時代において、支配階級はその正統性を言語、出版語の外で生み出していた。支配階級の連帯は想像によってではなく、具体的な親族関係、庇護関係、人格的忠誠が生み出すものであった。しかし、ブルジョワジーは、そのような具体的な紐帯というものではなく、想像を母体として連帯を達成したのだった。文盲のブルジョワジーなど想像もつかない、とアンダーソンは言う。ブルジョワジーは言語(俗語、出版語)により結びついた世界史上最初の階級であったのだ。一九世紀末のヨーロッパにおいて、この連帯は俗語が通用する範囲の限界に達していた。
 ネアンの「ナショナリズムを唱道する新しい中産階級インテリゲンチアは、大衆を歴史に招じ入れねばならなかった。そしてその招待状はかれらの理解する言語で書かれねばならなかった」」 Nairn (1977,アンダーソン (2007)の引用による )という定式はある程度まで妥当する、とアンダーソンは主張する。しかし、なぜそれがある程度でも妥当するのかについては海賊行為 xxxv ここでいう海賊とは、海賊版(違法コピー) DVDの「海賊」の用法と同じであると考えて良いだろう について見ていかねばならない。
 フランス革命がひとたび起こると、その事件の連鎖は出版され、それによりひとつの「概念」となり、やがて一つのモデルとなった。
 それと同様に南北アメリカ独立運動も、出版により概念化され、モデル化され、ブループリントとなった。「ブループリントの妥当性と一般化の可能性は、独立国家が複数存在することにより疑う余地なく確証されたのである」 xxxvi IC p.137xvi
 南北アメリカ独立運動の混乱の中からは、後に「概念」、「モデル」、「ブループリント」となる想像の現実 (イマジンド・レアリティーズ )国民国家、共和制、公民権人民主権、国旗、国歌、それと対立する概念は、王朝帝国、君主制、絶対主義、臣民身分、世襲貴族、農奴制、ユダヤ人街などである)が生じた。
このようにして、一八一〇年代には独立国民国家のモデルが海賊版製作のために利用可能になっていた、とアンダーソンは言う。しかし、それ以後、そのモデルから逸脱することはもはや許されなかった。
公定ナショナリズムとは、シートンワトソンが提唱した概念で、「国民と王朝帝国の意図的(この意図とは支配者の意図である)合同」である。「公定ナショナリズムは、共同体が国民的に想像されるようになるにしたがって、その周辺においやられるか、そこから排除されるかの脅威に直面した支配集団が、予防措置として採用する戦略なのだ」。 xxxvii 同上 p.165公定ナショナリズムの政策手段は、国家統制下の初等義務教育、国家の組織する宣伝活動、国史の編纂、軍国主義などである。
 シートンワトソンが「公定ナショナリズム」と呼ぶものは、一九世紀半ばごろからヨーロッパにおいて発展した。その典型的な例は帝制ロシア化である。帝制ロシアは、一八八七年、国語をすべての国民学校において最低学年から授業の言語として使うよう義務付け、一八九三年に、講義をドイツ語で行っていたドルパット大学を閉鎖させた。シートンワトソンは、ロシア革命は、労働者や農民たちによる知識人に対する革命というだけでなく、非ロシア人のロシア化に対する革命でもあったとさえ言う。このナショナリズムは、民衆の言語ナショナリズムの登場までは歴史的にあり得ないことであった。つまり、それは一八二〇年代以来、ヨーロッパで増殖した国民主義運動の反動として生まれたのだった。公定ナショナリズムは、民衆の想像の共同体から本来排斥されるべきである権力集団による応戦だったからである。また、公定ナショナリズムは、ヨーロッパとレヴァント(東部地中海付近の諸島および沿岸諸国)に限られていたわけでなく、一九世紀半ばにそれらの国の植民地とされたアジア、アフリカにおいても実施された。最後に、公定ナショナリズムは、ヨーロッパからの支配を逃れた(日本、シャムなど)ごく一部の地域で、その国の支配集団により採用され模倣された。
 しかし、公定ナショナリズムにおいて広められた帝国主義は、結局はつねに「装い」「手品」「芝居」であり、植民地の喪失をいつまでも哀悼するのは常に支配者階級だけであった。
Ⅶ 最後の波
  この章の表題になっている最後の波とは、産業資本主義によって初めて可能となった新しい地球帝国主義に対する、アジア、アフリカなどの植民地に押し寄せたナショナリズムの波のことを指す。マルクスは、その地球帝国主義のことをこう表現する。「自己の生産物に対してたえず販路を広げればならない必要は、ブルジョワジーを駆って全地球をかけまわらせる」。
 他方、資本主義はまた出版資本主義という形で、ヨーロッパにおいては俗語による民衆的ナショナリズムの創造に一役買い、この民衆的ナショナリズムは、王朝原理を掘り崩し、王朝を国民へ帰化するよう駆り立ててもいった。公定ナショナリズムは、「ロシア化」とでも呼ぶべきものを、ヨーロッパ外の植民地にもたらした。このイデオロギーは、一九世紀末の広がりすぎた帝国という現実にも適合していた。帝国は、少数の同国人 (ナショナルズ)によって統治されるにはあまりにも広大で、世界各地に散らばりすぎていた。加えて、資本主義と同様に、国家はその機能を本国と植民地の両方において増加させていった。行政機能の増殖という要請により、「ロシア化」学校制度が整備された。中央集権的、標準的なこの学校制度は、新たな巡礼の旅を生み出した。その終着点は、典型的には、各植民地の首都であった。宗主国である帝国の中心の国民が、それ以上の出世をゆるさなかったからである。教育の旅は、行政の旅と並行していた。これらの巡礼の旅の組み合わせが新しい「想像の共同体」に領土的な基盤を与え、その共同体の中で植民以前からそこで暮らしていた土人 (ネィティブズ)は、自分たちを同国人 (ナショナルズ)とみなすことが可能となったのである。
Ⅷ 愛国心と人種主義 ..
  ナショナリズムのほとんど病理的ともいえる性格、すなわち、ナショナリズムが他者への恐怖と憎悪に根ざしており、人種主義とあい通ずる」 xxxviii 同上 p.233xviii という進歩的、コスモポリタン的知識人の見解を、アンダーソンは退ける。アンダーソンはナショナリズムは自己犠牲的な愛を呼び起こす、ということを、ナショナリズムの文化的遺産(詩、小説、音楽、造形美術)から引き出す。そして、それら文化的遺産からナショナリズム的な愛に相当する、恐怖と嫌悪を見出すことはまれだと言う。
 ナショナリズムにおける愛についての性質を探るためにアンダーソンは、言語がその愛の対象をどう表現しているか見る。それは二つに分けられる。親族の語彙(祖国、マザーランド(母国)、ファーターランド(父国)、パトリア(父国)、さもなくば、故郷(ホーム )の語彙(くに、ふるさと、マイハート(ふるさと)、タナ・アイル(ふるさとなる島々))などでそれは表現される。これらの語はいずれも自然と人間との結びつきを表している。自然には選択不可能性という性質があるため、自然と人間の絆には「ゲマインシャフトの美」とでも言うべき、無私無欲の美がある。また、選択不可能である故、国民というもの (ネーションネス)は、皮膚の色、性、生まれ、生まれた時代など、人がどうにもしがたいすべてのものと同一視される。
 自分が選んだものではない国のために死ぬということは、他の選択可能な、脱退可能な組織のために死ぬことでは太刀打ちできない、道徳的崇高さを帯びる、とアンダーソンは主張する。
 このことを理解するために、アンダーソンは、言語に立ち返る。言語は、第一に、いかなる言語もその誕生日を知ることはできない、という原初性をもつ。そこには均質で空虚な時間を超越する、同時性が感じられる。
第二に、言語は特に詩歌の形式において示しうる同時存在を感じられる共同性がある。例えば、国歌の斉唱には、同時性のイメージが込められている。「我々すべてを結びつけているのは、想像の音だけなのだ」 xxxix 同上 p.239
しかし、この斉唱には、新しく参加することも許される。国民が宿命的なものだとしても、それは歴史に埋め込まれた宿命である。今日では、いかに偏狭な国であろうとも帰化〈ナチュラライゼーション〉〔自然化〕すれば国民に参加できるという原則を、それが現実にどれだけ難しかろうと、原則としては受け入れているのだ。
ネアンは言う。「人種主義と反ユダヤ主義ナショナリズムから派生したものであり、それ故、「十分な歴史の奥行きをもってみれば、ファシズムナショナリズムについて、他のいかなるエピソードよりももっと多くのことを物語ってくれる」」と Nairn (1977pp.337 and pp.347アンダーソン (2007)の引用による)
しかし、アンダーソンは、これを否定する。ナショナリズムは歴史的(血縁的ではない)運命にある言語で考えるのに対し、人種主義は歴史の外に普遍的に存在したと主張するのだ。
アンダーソンは、「愛にはいつも、どこかたわいのない想像力がはたらいている」 xxxx 同上 p.250xx と言うがこれは、その愛がナショナリズムであるとき、その愛着の対象(その範囲)が想像されたものであるということを指す。
 
Ⅸ 歴史の天使
  アンダーソンは、革命とナショナリズムを「双子の概念」だとする。つまり、革命と同時にナショナリズムは生み出されるということである。このナショナリズムは、公定ナショナリズムである。なぜなら、革命が成功するためには、結局「革命を計画し」「国民を想像する」ことが必要だからである。この国民を想像する主体は革命家であり、彼らが指導部の地位に就いた際に、そのイメージは現実に権力を持ち、公定ナショナリズムとなる。そして、そのモデルは国家運営に妥当なものである。
革命家が国家権力を掌握した際には常に「旧国家の配線」(ときに役人、情報提供者を含む、ファイル、関係書類、公文書、法律、財務記録、人口統計、地図、条約、通信、覚書その他の遺物)を相続し、使用しているとアンダーソンは指摘する。革命家は国家を破壊するのではなく、それを相続するのだ。
 革命とナショナリズムの結びつきは、当然ヴェトナム社会主義共和国、民主カンプチア中華人民共和国にも適応される。我々は「マルクス主義者それ自体はナショナリストではない」、「ナショナリズムは近代発展史の病理である」といった偏見を捨て、ナショナリズムに向き合い、ナショナリズム国家間の戦争を制限し予防すべきだとアンダーソンは言う。
 
Ⅹ人口調査、地図、博物館
 アンダーソンは、植民地国家が宗主国から独立したときに植民地国家からの系譜を受け継いでいると指摘する。その受け継がれた系譜とは、一九世紀半ば以降、植民地国家のイデオロギー、政策の下敷きとなった文法であり、その文法をもっとも浮彫りにするのが人口調査、地図、博物館という三つの制度である。これらの制度が一体となり、植民地国家がその支配領域を想像する仕方(支配下にある人間が誰であるかという性格付け、領域の地理、系譜の正当性)を根底的に作った。なお、この章は主に東南アジアの場合の話である。
〇人口調査
 社会学者のチャールズ・ハーシュマンは人口調査についての研究において、二つの重要な結論を導いた。すなわち、植民地時代の進行とともに、人口調査の範囲がより明白に、より排他的に、人種的になるということであり、対して、宗教的アイデンティティは次第に人口調査の主要分類から消えてゆくということである。
 アンダーソンはその議論から発展させて、「すべての人がその中にいること、そしてすべての人がひとつの、そしてひとつだけの、きわめてはっきりとした場所をもっていること、これが人口調査のフィクションである。分数はあってはならない」x xxxi 同上 p.277 と述べる。
〇地図
 タイ人歴史家トンチャイ・ウィニチャクーンは、一八五〇年から一九一〇年にかけて、国境で区切られた「シャム」がいかにして存在するまでに至ったか、その過程を跡付けている。シャムは植民地化されなかったが、その国境となったものは植民地的に決定されたとアンダーソンは彼をひきあいに出して主張する。
 シャムにおいては一八五一年、ラーマ四世の即位まで、二種類の地図(宇宙図、海図)しか存在せず、複数技術の時代はまだ来ていなかったので地図はいずれも手書きであった。そして、いずれのタイプの地図にも国境は示されなかった。この地図の製作者においてはリチャード・ムアの次の定式は理解不能であっただろう。
 
  国境は隣接する国家の領土の接触するところにあり、主権の限界を決め、そのなかにふくまれる政治的地域の空間的かたちを定義するのに特別の意義をもつ。〔中略〕境界は〔中略〕国家主権のあいだの垂直的な接触面が地表と交差するところに成立する。〔中略〕垂直的な接触面として、境界は水平的な広さをもたない。
 
シャムにも境界石その他の目印はあったが、それらはいずれも「空から見たものではなかった。つまり、水平的な(目の高さから見た)区分であり垂直的な接触面ではなかった。トンチャイは、出版資本主義とヨーロッパ式地図の提出した空間的現実についての新しい概念が合わさることにより、タイ政治の語彙に変化が生じたとする。クルン、ムアンという伝統的な言葉は領域を、聖なる都、または、人口密集地帯の観点から想像したものであったが、これらの言葉は一九〇〇から一九一五年の間に完全に姿を消した。それに代わって、プラテート、「国」という概念が到来し、それは領域を国境で区切られた領土的空間という目には見えぬ観点から想像するものであった。
人口調査と同様に、ヨーロッパ式地図も対象を全体的に捕捉分類することを基礎とするものであった。軍事測量士たちは、人口調査者が人々を監視しようとしたのに対し、空間の監視を目指して行軍した。
 新しい地図は、人口調査の形式的装置が生み出した無限の系列を、それらが政治的目的のためにどこで終わるか、領土的に限定することで分解した。逆に、人口調査は、地図の形式的地形を政治的に埋めたのである。
 これらの変化から、二〇世紀東南アジアの公的ナショナリズムを直接予示する地図の二つの最終権化(ともに後期植民地国家によって始められた)が姿を現すことになった。一つは、疑似法律的な方法によって権力の拡大を正当化しようという試みであり、これはヨーロッパ文明においては、地理的空間の法的相続と法的譲渡がすでに長い間確立していたからである。もう一つの権化はロゴとしての地図であり、これは帝国国家が地図の上でその植民地を帝国の色で染めるという慣習が始まりであった。植民地は地図の上でその宗主国の色に従って色分けされ始めると、それぞれがジグゾー・パズルの取り外しのできる一片のように見えた。それは純粋な記号 (サイン) (地理的文脈(経緯度の線、地名、河川、海、山の記号、隣国)から完全に切り離された一片)となり、もはや世界への羅針盤 (コンパス) ではなくなった。こうして、一片と化した国はポスター、公印、レターヘッド、雑誌・教科書の表紙、テーブル・クロス、ホテルの壁など無限に複製できるものになっていた。
〇博物館
 東南アジアの植民地支配者は一九世紀初めまで、現地の文化的遺産になんの関心も払わなかった。しかし、イギリス東インド会社から派遣されたトーマス・スタンフォードラッフルズがそれに最初に興味を持ち、その地の美術品の個人コレクションを作り、その歴史の体系的研究に着手すると、あとは早かった。古代遺跡は次々と発掘され、密林は拓かれ、測量され、写真に撮られ、再建され、柵で囲まれ、分析され、展示された。植民地国家の考古学部門は権威ある部門となり、有能な学者=官僚もそこで勤務することになった。
この変化は、二大東インド会社の商業的植民地体制の消滅、そして宗主国に直接結びついた近代的植民地の誕生と関連していると、アンダーソンは指摘する。植民地国家の威信はその上位の宗主国の威信と密接に結びつくようになり、大遺跡の復旧に考古学的努力が払われた。その理由としてアンダーソンは三つを挙げ、最後の理由がもっとも重要であると指摘している。
 第一に、時期的に考古学的調査が重視されるようになったのは、国家の教育政策をめぐる最初の政治闘争が行われた時期と重なる。進歩的人士は、植民者も原住民も近代的学校制度への本格的投資を訴えた。保守的人士はそうした学校教育の長期的帰結を恐れ、それに反対した。つまり、本国への植民地人の進出を予見して反対した。考古学的復旧作業は、進歩的人士の圧力をかわすことをも狙った保守的教育プログラムであると言える、とアンダーソンは言う。
 第二に、復旧の公式イデオロギー・プログラムにおいては、遺跡の建設者と植民地の原住民は常に上下関係でもって理解された。復旧された見事な遺跡は、周辺の農村の貧困と比較されて、原住民にもうこの遺跡を建設する能力や自治の能力がないことを示すものであった。実際、一九三〇年代までのオランダ領東インド会社においては遺跡の建設者と原住民は同じ「人種」ではないと見なされた(建築者は「本当は」インド移民であったとされた)し、ビルマにおいては衰退の歴史が想定され、原住民にはもはやそのような偉業をなす能力はないと見なされた。
 第三の理由は、ときとともに征服の権利についての野蛮な議論は鳴りを潜め、別の正当性を生み出そうという努力であった。ヨーロッパ人の中にも東南アジア出身の者たちが増え、彼らは東南アジアを自分の故郷とし始めた。遺跡の考古学はしだいに観光と結びつき、国家はそれとともに一般化された、しかしその土地特有の伝統の護持者として立ち現れた。遺跡は、博物館化され、これによって世俗的(そこにおいて宗教儀礼や巡礼は排除された)植民地国家の勲章としての新しい位置づけが行われた。しかし、この現世国家のもつう手段の特性は無限の複製可能性にあり、この複製可能性は技術的には印刷と写真によって可能となったものであるが、政治文化的には支配者自身その土地の遺跡の神聖さをしんじていないということによった。そこでは、一般的に次のようなプロセスが進行していた。
(一)「大量の技術的に優れた考古学的報告書〔の作成〕、そしてここには何十枚もの写真が付され、そこに特定のはっきりそれとわかる廃墟の復元の過程が記録される」 xxxxii 同上 p.296xxii
(二)「一般消費用のやたらと挿絵のはいった本〔の出版〕、そしてそこには植民地内で復元されたすべての主要な遺跡の見本的図版が掲載される。(オランダ領東インドにおけるように、ヒンドゥー仏教寺院と復旧されたイスラムのモスクが並置されるならもっと良い。)こうして出版資本主義のおかげで、たとえ国家の臣民にはずいぶん負担となるにしても、一種の国家基本財産国勢調査図絵が利用できるようになる」 xxxxiii 同上 p.296-7
(三)「一般的ロゴ化〔の進行〕、これは上に述べた冒涜の過程によって可能となる。いろんなシリーズの郵便切手――熱帯の鳥、果物、動物、そして遺跡シリーズ――はこの段階をみごとに示している。しかし、それだけではない、絵葉書、学校の教科書も同じ論理に従う。そこから市場まではもう一歩にすぎない。そしてそこでホテル・パガン、ボロブドゥール、フライド・チキン、等々が現れる」 xxxxiv 同上 p.297xxiv
 この種の考古学は、複製技術の時代に成熟し、優れて政治的なものであったが、その政治性はあまりに深いレベルであったので、植民地の人員を含めこの事実を認識しなかった。そしてまさに、世俗的植民地国家の勲章(遺跡)がこのように無限に、日常的に複製されうるということが国家の真の力を示していた。
 人口調査、地図、博物館は、相互に連関することによって、後期植民地国家がその領域について考える考え方を示す。この考え方の縦糸をなすのは、全てをトータルに捉え分類する格子 (グリッド) (振り分けシステム、分類システム)であり、横糸はシリーズ化とでも言うべき、世界は複製可能な複製からなるという思想である。前者は、国家が支配する、または支配することを考えている全て(住民、地域、宗教、言語、産物、遺跡等々)に適用できる。それは境界が区切られ、限定されることであってしたがって数えることができる。後者は特定のものは常にあるシリーズを暫定的に表現しているにすぎず、そうしたものとして扱われる。植民地国家がいかなる中国人より前に中国人という区分を見出したのもこのためである。
 地図と人口調査はこうして結びつき、「ビルマ」「ビルマ人」を可能とするような文法を形作った。
 植民地時代以後、それぞれの廃墟は、この現世的シリーズ(古代遺跡)のなかで捉えられて、監視の対象となり、無限に複製可能なものとなった。この古代遺跡のシリーズは「オランダ領東インド」、「イギリス領ビルマ」といった地理的・人口統計学的に分割される中で登場した。つまり、地図と人口調査、その文法の中から生まれた「古代遺跡」のシリーズの中から博物館的な探求が開始されたのであった。
記憶と忘却
○新空間と旧空間
 一六世紀においては、ヨーロッパ人の間で、遠隔の地を彼らの出身地にあたる「旧」地名の「新」版として命名するという慣習が始まっていた。こうした地名は、その土地を支配する帝国が滅んだあとでも生き続け、ヌーヴェル・オルレアンはニュー・オーリンズとなり、ニュー・ゼーラントはニュー・ジーランドとなった。また、かなり昔からある町がその名称に新しいという意味の言葉を含むこともある。これらは、常にすでに滅んでしまったものの後継者、相続人という意味での「新」であった。
 これに対し、一六世紀から一七世紀にかけてのアメリカでの地名の命名法について驚くべきことは、「新」と「旧」が時代的にも並存しているということであった。ここにあるのは、相続 (インヘリタンス)の言語ではなく、兄弟競争 (シブリング・コンペテイシヨン )の言語であった。
 「新」のこうした同時代性は、集団が、我々は他の多くの集団の人々と、たとえ顔を合わせることはなくとも並行して生活していると考えるようになって初めて成立した、とアンダーソンは主張する。
 こうした並存の感覚、同時性の感覚が、単に成立するだけでなく大きな政治的意義を持つためには、並存する集団の間の距離が大きく、新しい集団がかなりの規模を持ち、定住し、そして旧集団にしっかり従属していなければならない。こうした条件を十全に満たしたのが南北アメリカだとアンダーソンは述べる。こうした南北アメリカの条件からもナショナリズムは旧世界(ヨーロッパ)ではなく新世界(アメリカ)にまず現れたか説明できるとアンダーソンは主張する。
〇新時代と旧時代
 新世界のクレオールが自分たちをヨーロッパの共同体と並存しかつ比較可能な共同体であると想像できるようになり、そのことが上に書かれた奇妙な地名によって表されたとすれば、独立宣言と独立戦争はこの(地名における)新しさに新たな意味を付け加えることになる。
 独立宣言は、歴史的に独立を正当化する理由を挙げることはなかった。「いま過去との根底的な断絶が起こりつつある―「歴史連続体の爆破」とでも言うべきか―そういう深甚な感覚が急速に拡大しつつあった」 xxxxv ヴァルター・ベンヤミンの「歴史哲学に関するテーゼ」からの引用だと訳者は指摘する ベンヤミンは言う。古くから使われてきた名称を廃し、既存の世界との深刻な断絶を修辞的に画すという例として、アンダーソンは「ペルー人」「〔新世界暦〕元年」を挙げている。
 また、時計や(定期的に発行される)新聞や(均質で空虚な時間における同時的行動の表現に劇的な可能性を持った)小説などが、人間を宇宙に存在するあらゆるものを人間の時間で計測するようにし、それらが大洋を越えて同時に存在する対(例えば、ヨークとニューヨーク)を了解可能なものにした。しかし、こうした時間の計測は、まったく社会的因果関係は現世内的・連続的な見方を伴うものだということをも感じさせるものであった。よって、次の世代の人々は系譜的にナショナリズムを読む過程を開始した。
 ヨーロッパでは、新しいナショナリズムはすぐに「眠りからの目覚め」として自らをイメージした。この比喩が人気を博した理由について、アンダーソンは二つの理由を挙げている。一つは、この比喩は並存感を(大洋を挟んでむこうとこちらに並存しているという感覚)を考慮に入れたものであったこと。もう一つは、この比喩は新たなヨーロッパのナショナリズムと言語のあいだに決定的な比喩的つながりを提供したということである。
 しかし、アメリカにおいては、上記のようにはいかなかった。アメリカの国民主義的運動においては言語は争点とならなかった。本国と共通の言語を共有することが最初の国民意識を可能にした。また、あまりに言語的系譜を強調することは「独立の記憶」をあいまいにする危険がある。この独立の記憶を維持することが決定的に必要なのだ。
 その解決は、歴史に求められた。これは旧世界にも新世界にも適応可能なものであった。ミシュレは、その故人が自らの犠牲をそう理解していないときにおいても、一七八九年の断絶とフランス国民の自覚的登場を可能にした人々を掘り起こした。こうして「第二世代」の国民主義者は、次第に死者に代わって話すことを学んでいった。
〇兄弟殺しの安心
 ルナンは『国民とは何か』において、忘却の必要性について論じた。ルナンは、かつての惨劇(サンバルテルミーの虐殺、南フランスの虐殺)を覚えかつ忘れていることが現代市民の主たる義務だと主張する。このパラドクスを解くには、この「サンバルテルミーの虐殺」「南フランスの虐殺」という言葉がもつぼかしの効果について考えるべきだとアンダーソンは言う。この比喩的表現の効果によって、中世・近世ヨーロッパにおける宗教紛争上の事件がフランス人同胞のあいだの兄弟殺しの戦争だとされる。ウィリアム征服王も同様に、省略形で、人に何かを思い出させ、それを直ちに忘れさせる。
 アメリカの南北戦争においても、それは後世においては兄弟殺しの戦争であったと理解された。一九世紀、同胞愛はこのように理解されたとアンダーソンは言う。
〇国民の伝記
 アンダーソンは、国民の物語を人物の伝記の比喩で表そうとする。複製時代の恩恵をうけた膨大な記録(出征証明書、日記、成績通知表、書簡、診療記録等々)からパーソナリティ、アイデンティティの概念が生まれ(それ以前には忘却されていた)、そしてそれが記憶されることにより人物の伝記が生まれる。これらの物語は、均質で空虚な時間の中に設定される。
 「人物」と「国民」とでは、一つ基本的な違いがある。それは、国民にはそれと特定できる誕生も、自然な死もありえないということである。また、国民には始祖がいないから、系譜として書く訳にもいかない。唯一できるのは、北京原人ジャワ原人アーサー王など考古学が照らし出すものへと「ときを遡り」国民の伝記をつくることである。
 
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i ベネディクト・アンダーソン口述、梅森直之編、光文社( 2007)『ベネディクト・アンダーソングローバリゼーションを語る』 p.40
ii Karl Marx and Friedrich Engels, The Communist Manifesto, in the Selected Works,, p.45. 傍点引用者。ちなみに邦訳の該当箇所はマルクスエンゲルス大内兵衛・向坂逸朗訳、岩波書店 1951)『共産党宣言p.54
iii B.アンダーソン、白石隆・白石さや訳、書籍工房早川( 2007)『定本想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』 p.23(以下IC と表記)
iv 同上 p.23
v 同上 p.24
vi この定義は、国民国家は虚構の共同体であるという批判の援用として広く用いられてきたが、これは端的に誤読である。新倉貴仁( 2016)「「想像の共同体」を越えて―ベネディクト・アンダーソンナショナリズム論をめぐって―」、吉川哲士編『思想』、第 81108 号、 pp.42-62、、または、ベネディクト・アンダーソン口述( 2001)「記憶と忘却―インドネシアと台湾のナショナリズム」、渡辺英之編『京都精華大学紀要』、第 21号、p.82 参照
vii IC p.24.
viii 同上 p.25.
ix 同上 p.25.
x 同上 p.26.
xi 同上 p.44.
xii E・アウエルバッハ、篠田一士・川村二郎訳、筑摩書房( 1967)『ミメーシス(上)』 pp.84-85
xiii Benjamin,Walter, Illuminations.London:Fontana.1973, p.263
xiv Fevre, Lucien, and Henri-Jean Martin, The Coming of the Book, p.122.
xv 同上 pp.289-290
xvi IC p.79
xvii 同上 p.80
xviii 同上 p.84
xix 同上 p.84
xx 同上 p.85
xxi Nairn, Tom. The Break-up of Britain. London: New Left Books.1997, p.41
xxii IC p.94
xxiii Masur, Gerhard. Simon Bolivar. Albuquerque:University of New Mexico Press.1948, p.678
xxiv IC p.120
xxv ここでいう海賊とは、海賊版(違法コピー) DVDの「海賊」の用法と同じであると考えて良いだろう
xxvi IC p.137
xxvii 同上 p.165
xxviii 同上 p.233
xxix 同上 p.239
xxx 同上 p.250
xxxi 同上 p.277
xxxii 同上 p.296
xxxiii 同上 p.296-7
xxxiv 同上 p.297
xxxv ヴァルター・ベンヤミンの「歴史哲学に関するテーゼ」からの引用だと訳者は指摘する
 

 学校の課題を利用して、『想像の共同体』を全要約してみました。章ごとの要約なので少し見にくいかもしれませんが御寛恕を。evernote方式で訳2万字です。後でショートバージョンもアップします。読みにくい、プリントアウトしたい人はtwitterの@bot73145848 まで連絡いただければ、pdf版を差し上げます。