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想像の幻想論

様々な思考の束

水島広子『女子の人間関係』

著者はまず、女性と、社会的に傷つけられ貶められ続けそうならざるをえなかった「女」とを分ける。そして、その「女」は虐待やいじめなどにより傷つけられてきた人と特徴が共通すると述べる。「自分の意見と違う意見を持っている人を見ると「自分が否定された」と感じがち」「「自分の敵か味方か」を区別しがち」「自分の気持ちを率直に打ち明けることが苦手」「「自分の領域」と「他人の領域」の区別がつきにくい」をその特徴として挙げる。

しかし、「女」は生物的なメカニズムによってではなく、社会的なメカニズムによって作られるのだ。「伝統的に、そして未だに一般的な傾向として、女性は「男性から選ばれる性」」だと著者は主張する。そしてそのことにより、女性は「選ばれる」ことを中心に世界が回っている。

選ばれるということは「外見」重視になるということだ。「女性らしい細やかさ」は一見内面の問題に見えながら、実は「外的なもの」である。なぜなら、それはかなりの程度マニュアル化できるからである。男性がそれを求める限り女性にはそれを「演じる」という選択肢が存在する。

女が選ばれる性であるということは、選ばれる人がいれば選ばれなかった人が存在する。→「女の敵は女」 この問題の本質は、常に選ばれる性であることに由来する。女は絶対評価ではなく相対評価の世界の中にいる。よって、「女」は「相手にどう思われるか」というところに目がいく。

女性であるがゆえに何かを我慢した人は、その被害者意識から、我慢していない女性を「許さない」と感じることが多い。自分が「べき」で縛られている人は、他人のことも「べき」で縛りたがる。それは「正論」「一般論」の形になって我慢していない女性を縛ろうとする。

顔色が良く読めると、女性は褒められる。しかしそればかりしていると「それが誰の領域の問題なのか」ということが分からなくなる。「相手の顔色をよく読める、相手が必要としていることを察することができる、ということは、つまり相手の領域に立ち入って忖度しているということ」

他人の領域を平気で侵害する人は、そもそも「領域」という感覚が希薄だから、他人にも同じようなことを求める。「自分は表現しなくても、顔色を読んでほしい」もその現れ。言わなくても察してもらえることは女性にとってとても重要。察することが美徳とされる、「気がきく」と言われるのだから、それを相手に求めるのも不思議ではないし、察してもらえないことを「気にかけてもらってない」と感じるのも仕方がない。しかし、本来「自分の領域」の中のことが分かるのは自分だけ。

「女」の特徴とは、傷の症状のようなもの。さらに傷つけるのではなく、うまく避けて、できれば癒していくことが必要。「女」を見下したり、自分自身が「女」にならず、自立した自由な責任を持つ個人としてその人の、または自分の中の「女」を癒していくことが最終目標である。

どうですか、大変ですね(自分も女ですが)。まあ、「女」としてではなく自立した人間、個人、一個の人格として誠実に時には逃げつつその人と向き合えば良い方向に向かうのではないか、という話です。相手がこうされたいのではないか、社会に求められてるのではないか、ではなく自分がこうしたいからこうすると決断すると生きやすいとも。要は飄々と生きろということですかね。自分は子供を持つつもりはないので、あれなのですが、「子供を産んで専業主婦」「子供を産まないでバリキャリ」「子供を産んで兼業主婦」のどれもが、全て何かを諦めた選択肢になるというのは目から鱗でした(仕事で活躍したかった)(子供を産みたかった)(育児も仕事も中途半端と言われるのでは)。そんな選択肢も能動的に選ぶことで、肯定的に受け取れるようになれるというのは、ただの欺瞞だと思います。社会運動に向かいましょう。そして、子供を産んでも仕事が普通にできる社会にしていけば、女性が傷つけられた「女」にならない社会になれば、息がしやすくなるのではないかと思います。具体的には保育所やベビーシッターなど育児制度に金ドボしたり、女性の賃金を男性並みに上げたり、ベーシックインカムを子供に適用したり。高齢化社会だからこそ子は宝です。